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ケスケラの徒然日記

このブログでは日々の気づきをランダムに記録します。

幸福について

世間一般で幸福ということは金があって交友範囲が広くて社会的名声もある、そういう人生が幸福であると思われているようだが、たとえそれらの条件がすべて揃っていても、自分の本当にやりたいことがやれないのは不幸なことである。そして家柄の良い家庭ほど何かと世間的な制約が多いものである。

日本国憲法は幸福追求権を保証しているが、「公共の福祉に反しない限り」という制約がある。「公共の福祉」とは大仰だが、憲法学者の見解では他人の幸福追求権と衝突しない限りということのようだ。

だが、よく考えてみると幸福というものは他人の幸福と衝突する場合が多いのである。特に色恋沙汰ではそうであろう。不倫は夫や妻の権利を侵害するのである。

まあ、要するに他人に迷惑をかけない限りという人として当たり前の制約があるに過ぎないのだが、幸福追求というのは大人げない面もある。他人に迷惑をかけてはいけないのは当然だが、そのために自己の幸福追求を断念しなければならないのであれば、それは不幸なことである。

つまり日本国憲法は現在の幸福な秩序の維持存続を保証しているのであって、現在の幸福な秩序を紊乱するような新たな幸福追求の権利は一切認めていないのである。

すると次に提起される問いは、現在、幸福である者は(私を含めてそうだが)果たして潔白であるかどうか、これである。元々、幸福追求が他人の幸福追求と衝突するものであるなら、現在の幸福もまた過去の闘争の結果であるかもしれない。他人に迷惑をかけない限りという「公共の福祉」に対しては疑問符が叩きつけられるべきである。不穏なことを言うようだが、法の理念はあくまで理念であって現実とは異なる。現実の社会は「公共の福祉」という葵の御紋にすべての者がひれ伏して、すべての人が相争うことなく幸福追求しうる社会であろうか? 非正規雇用や残業でエゲツないほど収奪されている人々に尋ねるがいい。

こうしてみると芸術家が幸福である理由が分かる。ただ彼が幸福であるのは、自己の芸術的欲求を色恋沙汰や金儲けよりも上位に置く場合である。その場合に限り、その芸術的欲求は他人の利害と対立しないからである。同様に学問的探究を最上位に置く学者も幸福であろう。だがそういう色恋を断念したアルベリヒのような人間は希有である。独身を貫いたスピノザやカントは幸福であったかもしれない。

スピノザは幸福追求を哲学の目的としているが(知性改善論序文)彼の言う「幸福」とは世間的な幸福とまったく異なるものである。では信仰による幸福かといえば、『エチカ』の諸定理に信仰という言葉はない。スピノザは人間ではなく、神という絶対から出発して幸福を演繹しているのである。それは自己同一性に基づく幸福ではなく、神の様態変様としての自己肯定による幸福であり、彼にとって自己の幸福とは他者である神の幸福を意味する。第三種の認識は自己の完成ではなく、自己解体による人間からの離脱である。

サドもまた、幸福とは自尊心が生み出す幻影に過ぎないと述べている。世間的な幸福は自己同一性においてのみ成り立っているに過ぎない。それは戸籍の幸福である。そして自己の欲求を自然の代理としている。サドもスピノザと同様に自己の幸福を自然の代理としての幸福としており、神=自然とするならば、スピノザの幸福概念と驚くほど類似している。両者が主張していることは、人は本当に自分のやりたいことをやるという最高の幸福においては、自分以外のもの(神=自然)に変貌するということだ。

こうしてみると、自己の内発的欲求を満たすことが幸福であるにせよ、その内発的欲求そのものが自己のものであるかどうか疑わしいのであり、自己責任などというものは存在しないのである。

こうした見解は何ら目新しいものではなく、それこそがまさに流行の一種であるが、再度、幸福というものを考えてみると、確かに自己が変容しないような幸福は単なる現在の延長であって幸福とは言えないだろう。エクスタシーは自己からの離脱である。

私としては他人と争うような気力はない。あくまで気力がないのであって、争い自体を否定しないし非難するつもりもない。もちろん、攻撃に対しては反撃するが、攻撃する側にもそれなりの事情があり、その人なりの幸福追求であろうと思う。ただ、私としては哲学的探究を最上位に置いて社会的利害に反しないように幸福追求したいと願うばかりである。

日本国憲法について

私は主観的には右でも左でもなく科学的見地に立ちたいと思うのだが、事実を事実として見る限り、日本国憲法9条には欺瞞的なところがある。憲法9条を批判しただけで、即座にネトウヨ扱いされそうだが、世間で流布している憲法論議とは異なる視点を提示してみたい。

憲法9条が欺瞞的である思う理由は、そこで謳われている永久平和主義の理念は理念として謳われる限り美しいが、それを現実行動に移すことが不可能な理念だからである。その意味では憲法9条は昔の満州国の「五族協和」に類似している。もし満州国の国民が「五族協和」という理念を現実行動に移したならば、その現実行動は必ず日本の軍部と対立したはずである。満州国は日本軍部に従う限りにおいて「五族協和」という理念を単なる言葉として享受していたにすぎない。同様に日本国民が憲法9条の理念を現実行動に移すならば、つまり欺瞞ではなく真の自立外交として米国の核の傘から離れて行動するならば、必ず米国の軍部と対立するであろう。日本国民もまたかつての満州国民と同様、米国という最強国に従う限りにおいて「永久平和」という理念を単なる言葉として享受しているにすぎない。米国の航空母艦に随行する自衛隊は、関東軍に参加する満州国軍とまったく同じである。これが憲法9条の「永久平和主義」が「五族協和」と同様、理念としてのみ美しいと思う理由である。

欺瞞だと思う理由がもう一つある。

それは日本国憲法そのものが形を変えた戦争であるということだ。法の本質がゲバルトであることは法学者の常識である。日本国憲法は強者と弱者の戦いを永久戦争として宣言するものであり、私的所有権を保証することで、強者(より多く所有する者)の権利を弱者の権利よりも大きく保証するものである。もちろん表向きは福祉国家として強者の権利を制限しているが、それは弱者が強者よりも少ない実質的権利で生き延び、かつ労働力商品として再生産されることを保証することにより、強者と弱者との戦争を恒久化しているのである。

このように日本国憲法は国内での強者と弱者の永久戦争を保証しつつ、国外での対外戦争においては強国に従属する弱者として永久に戦争放棄することを謳っているのである。

以上から導かれることは、憲法というものにあまり熱くならず、科学的に事実を観察して冷静に現実行動を選択することである。私の見るところ、現行の憲法論争は、欺瞞する者が自らの言葉に欺瞞され、欺瞞される者が欺瞞にしがみついているにすぎない。そろそろ我が国民は本気で思考するべき時がきているのではないか。 

補集合と部分集合について

本日のお題は、A・C・チャン著『現代経済学の数学的基礎』の中の問題である。

第1部第2章 練習問題2.3の9

例6は\phiUの補集合であることを示す。しかし空集合はいかなる集合の部分集合でもあるから、\phiUの部分集合でなければならない.「Uの補集合」という語がUの中にはないという意味であり、「Uの部分集合」という語がUの中にあるという意味であるかぎり、\phiがこれらの両者であるというのは逆説的にみえる。この逆説をいかに解くか。

これは良問である。

ここでUというのは普遍集合(全体集合)のことであるが、仮に全体集合Uの中の集合をAとするならば、補集合\tilde{A}とは{x|x\in U \cap x\notin A}である。すると全体集合Uそれ自身の補集合\tilde{U}はどうなるかという問題である。

この問題は空集合の定義の再確認と、補集合と部分集合との関係の理解をねらっているように思われる。翻訳版に解答はないが、原書の解答には\notin\not\subsetを区別せよ、とある。

逆説的にみえるのは問題文の「中にはない」と「中にある」が曖昧な表現であることに起因すると思われる。

全体集合の補集合とは、全体集合の要素ではない要素の集合であるから、それは存在しない要素なので、空集合となる。だから「中にはない」とは、空集合の要素は全体集合の要素ではないということを意味するのであって、空集合が全体集合に含まれないという意味ではない。つまり\notinであって\not\subsetではない。原書の解答はそのことを示していると思われる。

一方で、「中にある」とは、空集合はすべての集合の部分集合なので、全体集合に含まれるという意味である。つまり\phi \subset Uである。(例えば集合{a,b}の部分集合族は、{\phi,{a},{b},{a,b}}である。つまり集合の要素a,bではない無を要素とする空集合\phiが部分集合になっている。)

したがって補集合と部分集合の定義の仕方が異なるのだから、問題文の逆説(中にあると中にない)が、\not\subset\subsetの同時成立であると言おうとしているのであれば、そのような逆説はないと一応言えるのだが、どうもスッキリしない。

スッキリしないのは、空集合の要素が全体集合の要素ではないということが記号表現できないからである。空集合の要素は存在しないのだから当たり前である、と言葉で説明するしかないのである。

空集合\phiの要素が存在しないことについては\phi={ }と表記するしかないのだが、それでは空集合の要素それ自体を対象として論じることができない。存在しない要素を対象として論じることができないのはもっともであるが、空集合{0}ではないのだから、0とは区別された絶対無を表現する記号の必要性を感じる。そこで、あえて空集合の要素を記号表現すればハイデッガー流に、存在\existsを否定する\not\existsを使って\not\exists \notin Uとでも表現するしかない。すると確かに\tilde{U}={\not\exists}=\phiとなり、Uの要素ではない要素\not\existsをもつ集合だから、Uの補集合であることが明確になる。

\phi={\not\exists}を言語化すれば、「空集合の要素とは、存在しない要素である」というヘンな日本語にならざるをえないが、記号化すると、その言おうとする意味が明瞭になる。

言葉と異なり、記号が有利であるのは、射程範囲が広いことである。例えば、この記号をさらに{a,b}に適用してみると、その部分集合族は次のように表示される。{{\not\exists,\not\exists},{a,\not\exists},{\not\exists,b},{a,b}}

こうしてみると部分集合族とは要素a,bが存在しない場合を0、存在する場合を1に対応させたときの2進法表示(00, 10, 01, 11)に他ならないことが分かる。ゆえにn個の要素をもつ集合の部分集合の数は2^nである。絶対無の記号\not\existsを使用しない証明よりも見通しがよいように思われる。他にも応用できそうである。

そして空集合\phi={\not\exists,\not\exists}{a,b} の部分集合であり、かつ{a,b}の要素ではない要素\not\existsの集合として{a,b}それ自体の補集合であることも明瞭である。

以上のように記号\not\existsを使用すると、空集合、補集合、部分集合の関係が明確になる。

問題文の「中にはない」は、\not\exists \notin Uであり、「中にある」は{\not\exists}\subset Uであることを意味すると解すれば、それは\notin\subsetの同時成立であって、\in\notin、あるいは\subset\not\subsetの同時成立を推論するものではないから、推論に矛盾はなく、逆説は存在しないことになる。これでスッキリした。